留学Cafe 留学資料請求
留学Cafe 留学費用見積
留学Cafe カウンセリング

留学Cafe 目的別に探す 留学目的で探す
留学Cafe 目的別に探す

留学Cafe 留学資料請求
留学Cafe 留学費用見積
留学Cafe カウンセリング

携帯サイトへアクセス
語学留学高校大学留学専門留学ワーキングホリデーホームステイなら留学カフェ 願いがかなう、夢に近づく 成功する留学を安心・徹底サポート

長期留学体験談 コアラさん

英語が話せる!って自信を持って言えます

ペンネーム コアラ 年齢 10代

行先 オーストラリア
滞在期間 1年
留学種別 高校留学・ホームステイ

オーストラリアのシドニーに高校留学しました。海外生活1年間で、友達と英語で会話ができるようになり、本当に行ってよかったと思っていますので、体験談を書くことにしました。

◆オリエンテーション
エージェンシーで留学に関するオリエンテーションがありました。学校の夏休みを利用して合宿を行いました。
私はオーストラリアでしたが、ニュージーランドに行く人も、フィリピンとかノルウェーに行く人もいました。
ホームステイ中の礼儀のことや、挨拶の仕方などを先輩の方がレクチャーしてくれました。留学生どうしは近い留学先の人を見つけて、連絡先を交換し合ったりしました。

◆1週間目
前日は眠れないかと思いましたが、意外と普通に寝ていました。結構図太いものです。出発の日は、母が空港まで来てくれました。私はわくわくする気持ちでいっぱいでしたが、母は少しさみしそうでした。あとで聞いた話ですが、留学を許可したものの、実際飛行機が飛び立ってから急にすごく心配になったのだそうです。

空港にはホストファミリーが迎えにきてくれていました。これからマム・ダッド(お母さん・お父さん)と呼ぶ人達です。
映画で見たような欧米風の家に入ったときは、「本当にオーストラリアにきたんだあ」ってすごくうれしくなりました。
留学生同士があつまるミーティングがあったので、そこでまた日本人の仲間もできました。ミーティングにはヨーロッパ・アジア・南米など世界各国から来た留学生が集まっていて迫力がありましたよ。特に南米の人は、もともとかなり英語が話せる人が多く、すぐに国境を越えて友達ができていました。それがうらやましくて。逆に全然話せないのは日本人とタイ人。話せないどうしだし、アジア人同士だしで、話も通じないのになんとなく一緒にいる感じでした(笑)
早く英語が話せるようになりたい!と強く思いました。

◆1か月目
オーストラリアにきて1ヶ月後くらいで、学校がはじまりました。始まるまでにもいろいろ驚くことはいっぱいでしたが、ホストファミリーが一緒にいてくれるので、孤独を感じることはなかったんです。
けれども学校となると別でした。語学学校ではなく、現地の学校に通うプログラムなので、英語ペラペラ、というよりそもそも英語が母国語の人と一緒に交じるんです。
友達ができるのかどうか、日本では不安に思ったことが一度もなかったんですが、このときばかりは本当に不安でした。
けれど、幸いホストシスターのケイトが私と同じ年齢で、同じ学年だったので、私はケイトの友達と一緒に行動することができました。
オーストラリアではお弁当というものがあまりなくて、サンドイッチとりんごをランチに持って出かけるのが普通です。
朝、ハムや、ピーナツバターなど冷蔵庫から好きな具を取り出して、自分ではさんでサンドイッチを作りました。そしてナイロン袋に入れて持ち歩きます。お弁当箱はありません。パンがつぶれないか、すごく心配だったのを覚えています。
授業は選択制でした。好きな授業を取ることができて、日本ではなじみのない科目もありました。「ビジネス」とか。
私は一応内申のことを考えて、ある程度の成績をとらないといけないと思ったのと、友達を作りたいのとで、「音楽」「アート」など、英語ができなくてもコミュニケーションのきっかけにできそうで、いい成績をとれそうな授業を多めに取りました。今では「ビジネス」とかもやっておけばよかったかなと思いますが、本当に英語ができなかったので、そのときの心境的にはしょうがなかったかな。
でも思惑は大成功で、アートとか、絵を描くとクラスメートが話しかけてくれるきっかけになりましたし(絵は得意なほうではないのですが日本人は欧米人に比べて器用なようです)、音楽もピアノが弾けるということで尊敬され、話しかけてくれる人が一気に増えました。
びっくりしたのは数学の授業で電卓を使用することです。日本の電卓と違って、サインやコサイン、シグマなどが計算できるようになっています。数学はだめだめの私ですが、これでは間違えようがないとおもいました。日本人は世界的に数学が得意と言われているのに納得がいった感じです。日本では劣等性の私が一躍優等生でした。
反対に苦労したのは「地理」と「英語」です。英語ということは日本の国語の授業です。作文とか、日本語ならすらすら書けるのに、ちっとも進みません。地理のほうは、専門用語(といっても、山脈とか海溝とか、日本語にするとなんでもない言葉なのですが)が多く、日本で習ったことがない内容が出てくるともう大変!なんのこっちゃ!っていう感じでした…。

◆3ヶ月目
この頃が、一番ストレスが高かったように思います。聞こえる英語と話せる英語のバランスが悪いのです。
相手が何を言っているかが分かり始めました。それなのに、言い返せないんです。
たとえば、「宿題のやり方が悪い、貸しなさい」みたいなことをホストマザーが言ってきます。私は、確かにできていない点があったとしても、自分の力でやりたい。ところがそれをどうやって伝えればいいのかがわからないんです。
小さなことのようですが、積み重なると結構ストレスになっていました。
英語がまったくわからなかったときのほうが、平和だったように思います。言われっぱなしで、言いたいことがいえない。あるとき感情が爆発して、「そんなこと言わないで!」と日本語で怒鳴ったこともあります。
ホストファミリーにとってもそんな私といるのは、つらいときもあったと思います。
そんなとき支えになったのは日本からの手紙でした。日本の親友が、毎週のように手紙を書いてくれていたんです。私ももちろん返事を書きました。親友個人あてにはもちろん、学校あてに、「オーストラリア新聞」なるものを勝手に送りつけていました。担任の先生は、どうやらちゃんと掲載してくれていたみたいで、友達の手紙の中にはその新聞の話も書いてありました。
ホストマザーは面倒見のいい人で、どこへ行くにも私を連れていきました。ホストマザーの友達の家にも行きました。結構友達同士訪問しあったりするようです。私はここでも友達ができました。
「赤毛のアン」でも、ホストマザー(?)のマリラが自分の友達のところにアンを連れて行って、ダイアナと友達にさせていましたので、これが欧米文化なのかもしれません。友達になったリーは、なんでも、不登校だそうで、母親のレイチェルも「同年代の人と話すのはいいことだ」と私の訪問を喜んでいました。リーは、高校にはいかずに自宅で卒業資格をとり、大学を目指すと言っていました。同年代の友達はバカだ、と言っていました。私といると別に全然ふつうなので、なんで学校になじめないのかわかりませんでした。
リーは基本的に親切で、私がわからない英語をじっとがまんして聞いてくれました。そして手取り足取り、いろいろ教えてくれました。基本博識なようでした。人には言えないホストマザーとのすれちがいの悩みも、リーが聞いてくれていました。お母さん同士が友達なので、リーは私のホストマザーのよいところも悪いところも知っていて、私のつたない英語でも悩みが理解できたのかもしれません。リーのほうもおとなしいのですが私といると饒舌になるようでした。
学校にもオーストラリアで生まれ育ったベトナム人の友達がいて、私に対してはとても親切でした。アジア人どうし、というのでなんとなく連帯感があったのかな。移民国家ならではの人間関係ですよね。
つらいこともありましたが、いろいろな人に支えられていることを実感する時期でもありました。

◆6ヶ月目
この頃になると、急に話せることが増えてきました。現在完了とか考えなくても、なんとなくリズムで、言葉が出てくるんです。学校も、どんどん楽しくなりました。特に数学の授業では100点(日本ではありえない!)をとり、表彰までされてしまいました。おいおい…。
友達とはよく「プラザ」というショッピングセンターに出かけていました。ステイ先はシドニーまで1時間。ときどき、電車に乗ってシドニーまで出かけることもありました。もう、ホストファミリーがいなくても、遠出も平気です。シドニーハーバーの景色は何度見ても、涙がでるくらい綺麗です。
ベトナム人のターンとよく買い物にでかけました。アディダスのポロシャツとか、GUESSとか、スポーツガールズとか、現地で人気の服装をするようになって「オーストラリア人みたいになったね」と言われるようになりました。発音も、だいぶよくなったみたいで、あいさつしたくらいでは留学生とはバレなくなりましたよ!(別に隠す必要はないんですが、言い発音がしたいから、何分くらいバレないか、いつも測っていました)
それから映画!学生なら5ドルくらいです。今のレートなら1ドル70円くらいですから、350円です!はじめ、ホストファミリーと見に行った時は、英語ばっかりでわからなくて、映画館で寝てしまったのですが、この頃になると映画のストーリーくらいはわかるようになっていましたので、しょっちゅう友達と見に出かけていました。笑うポイントが現地の人とかぶるとうれしかったり…。
テレビの内容もわかるようになってきたり、現地ではやっている音楽をたくさん知ってきたことで、友達とも会話が弾むようになりました。
はじめのころは、「私は日本人です」とか「日本ではこうです」みたいな話しかできなかったので…。こればっかりは、いくら英語が話せてもダメで、一緒に過ごした時間とか、共通の話題とか、コミュニケーションにはそういうものがとっても大事です…。
すっかり忙しい生活になっていました。学校の友達と仲良くしていると、リーがすねたりして…。それはそれで悩みでしたが、「友達ができるだろうか」と悩んでいたころに比べたら、ずっとぜいたくな悩みです。
小さいですが、学園祭のようなものもありました。「異文化フェスティバル」という名前で、アボリジニ(原住民)の人をはじめ、学校の中で少数派民族に当たる人たちの文化を紹介するものでした。私は日本人代表で出てほしいと言われたので、スピーチの原稿を作って、それから日本の曲をピアノで弾きました。ピアノは学校で自由に練習できたし、日本みたいに弾ける人がいっぱいいたりしないので、常に私が独占しているような状態でした。さらに、異文化とは全く関係がないですが、マドンナの曲を友達と一緒に踊りました。これは、ベトナム人のターンは恥ずかしがって絶対にいやだと言ったので、オーストラリア人の友達、シャメルとマシェルのふたりに参戦してもらいました。
日本にいたときより5キロも太りましたが、それでもなお、オーストラリア人の人には「あなたは細すぎる」とよく言われました…。

◆9ヶ月目
もうすっかりオーストラリアでの生活に慣れていました。はじめは甘すぎて食べられなかった「ティムタム」や「マッドケーキ」をぺろりと平らげるようになりました。日本食は塩分が濃いらしくて、オーストラリアの食事だとしょっぱさがほしくなり、サラダに大量に塩を振って食べていましたが、それもなくなりました。コーラを携帯するようになり、友達の妹に日本語を教えて小遣いを稼ぎ、ほとんど違和感なく生活になじんでいました。ハグされてもかちこちにならなくなりました。
そして、エージェントの最大のイベント、オーストラリア4分の1周旅行に行くときがやってきました。
エアーズロックまでバスで行き、ケアンズまで北上してスキューバダイビングをし、シドニーに帰るという途方もないツアーです。
例の留学生仲間たちとまた集合しました。ちょっと誤算だったのは、結構留学生同士でふだんから遊んでいる人が多かったこと。私は学校の友達と家族に満足しすぎて、あまり留学生同士で遊ばなかったので、知らない間に出来上がった人間関係に溶け込むのにちょっと苦労してしまいました。
それでも、旅行は素晴らしかったです。えんえんと同じ風景が続く砂漠をひたすらバスで走り続けました。バスに大量に食料を積んで出発するんですが、なんせ砂漠なので、とちゅうからレタスとかがしなびてきて、それでもみんながまんして食べました。そんなサバイバルな状況も、今ではいい思い出です。
エアーズロックに上り、ゴールドコーストのサンゴ礁で泳ぎ、夜はバーベキューパーティー。
例のタイ人の人も、英語ができるようになっていて、いろいろと話をしました。
ちょっとかっこいいなあと思っていたアルゼンチンの人とも話ができました(なんのロマンスもありませんでしたが・・・)
ロシア人のものっすごいわがままなお嬢様(実家がものすごいお金持らしい)となぜか仲良くなりました。
とにかく十人十色で、刺激的な旅でした。そして、旅が終わると、自分のステイ期間があと3か月しかないことに気が付きました。
うそーっ!という感じです。はじめは、1年もオーストラリアで持つんだろうかと心配だったのに。あと3か月で帰らないといけないなんて早すぎる、と思いました。

◆12ヶ月目
最後の3か月は、本当にあっという間でした。最後のビッグイベントは、クリスマス。真夏に行われるクリスマスです。日本にいたころ、サンタクロースがサーフィンでやってくる絵を見たことがあったので、どんなとんでもないことが起こるかと、ひそかに楽しみにしていました。
クリスマスカードを買いに出かけました。ホストファミリーの子ども扱いで、私もプレゼントをもらえるようだったので、私からもホストファミリーにプレゼントをすることに。
よく考えたら、初めのころはホストマザーに対して完全に「大人と子ども」というスタンスで接していて、夕御飯の買い物に出かけたときとか、「何がいい?」ときかれたら「バターはこれがいい、りんごがほしい、おやつはケーキ」とぽんぽん勝手にカートに放り込んでました…人の家の家計なのに…恐ろしい…。
このころはちゃんと考え方が大人になっていて、なぜか「親といえど一人の人間」だと強く思い、日本の親に対しても、思いやりを持つようになった気がします。
さて、クリスマスに話は戻って、「24日は友達と過ごし、25日は家族と」と言われました。日本でいえば「おついたちは、家族で過ごしましょうね」という感じなのでしょう。
町では、家の飾りが競い合いになっていました。イルミネーションで家を飾るのが流行で、「すごい家がある!」と聞きつけてはみんなで見に行きました。サンタや(サーフィンには乗ってなくて、そりに乗ってました)トナカイのイルミネーションが普通の家庭の庭に飾られているんです。映画で見たことはありますが、実際見るとすごい迫力です。また、すごい電気代だと思います。
友達の家ではあちこちでパーティーが開催されました。いつもと違うのはバーベキュー(ラム肉)の代わりに丸ごとチキンが出てくること。プレゼント交換などもしました。クリスチャンの友達は、教会に行って洗礼を受けたと言っていました。
そして25日。ツリーの下に置いたプレゼントをみんな手に取っていきます。私には…ワッフルヘヤーを作るヘアアイロンが!そのとき学校ですごくはやっているヘアースタイルで、「やってみたい」と言っていたのをホストファミリーが覚えていてくれたのです!
そしてホストブラザーが「あれ、ママにもプレゼントがあるよ」と言った時、私は心の中でわくわくしていました。喜んでくれるのかな・・・。
子供がプレゼントをもらうばかりだと思っていたホストマザーはびっくりして、プレゼントを手に取りました。たしかバスソルトをあげたと思います。私を含めると4人の子供がいるホストマザーはいつも本当に忙しそうだったので、リラックスしてほしくて。ホストマザーは「ベリー・ナイス」と言って、ちょっと涙ぐんでいました。大成功!

◆最後の1週間
さて、最後は感動的なお別れのシーンとなるわけですが・・・。
さよならパーティーをして、ハグしあって、泣いて・・・。
というのをやっている人留学生ももちろんいましたが、私はそういうのに耐えられそうになかったので、できる限り辞退しました…。ターン(ベトナム人の友達)は私を家に招いて、大量のベトナム料理をふるまってくれました。ターンは料理がとても上手でした。このときになって意外な一面を見た感じです。
シャメルは、メッセージカードをくれ、リーはオーストラリアのスラング辞典にメッセージを書いて渡してくれました(このリーのやり方はかっこいいと思ったので、日本に帰ってからも人に本をプレゼントをするときに使ってます)
できるだけ、お世話になった人には会って、でも普通に、いつものように「またね」って言って別れました。本当に、また会いに来ようと思っているから、泣くなんておかしいと、自分を律してる感じでした。
それでもやっぱり、ホストファミリーと空港で別れるときは、涙が出ました。1年間のいろんなことがいっぺんに頭に巡ってくる感じでした。それでもぐっとこらえて笑顔で手を振りました。
飛行機が飛び立ちました。ほかの留学生も一緒です。行く時はなるべく避けていた、オーストラリア人のフライトアテンダントさんに、すらすらと注文をしている留学生のみんな。頑張って身につけた英語は一生ものです!

◆帰国後
日本の高校に戻ると「外国人が来た!」と騒がれました。私の言動はすっかりオーストラリアに影響されていて、ちょっとふつうと違って見えたようです。久しぶりに日本語を聞くと、頭が回転しなくて、聞き取れなかったりしました。また、先に英語が出てきて、日本語に翻訳するのに苦労したりしました。
母国語でもこんなに忘れるのですから(もちろん1か月もすれば元に戻りましたが)英語はなおさら忘れそうだと思い、受験勉強と合わせて英語を欠かさず聞くようにすることにしました。
大好きになった「マッドケーキ」の素をオーストラリアから買ってきていたので、日本の家族に作ってふるまってみましたが、「味が濃い!」「甘い!」と大不評。それに対して私は大好きだった「たけのこの里」を食べても「甘さが足りない」と思うなど、逆カルチャーショック(?)を受けました。
シャメルとターンとはメールでやりとりをし、大学に合格したら遊びに行く計画を立てています。